ですが、今後、更新されません
スポンサーサイト
この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
 - - -
皆様へ
文体の刷新、メディア自体の変革を行うため、人間存在の感覚・想像力の考究に関しては、今後こちら(http://0act.blog101.fc2.com/)で行なおうと思います。社会存在に対してはこちら(http://blog.livedoor.jp/trivial_person/)で探究して参ります。しかし後者に関しては、初読の方には読みにくいものともなっていると思われ、その上、私自身の「焦り」に関係されながら、多々の間違いや憶測、臆見を含んでいます。であるので、人間の限界と可能性を追究し、開かれた/深いコミュニケーション空間の創造を模索することは、主に前者から発されると思います。その他リンク集に附されているものは「☆」のあるものが私の過去の文章が記されていますから、「過去の私・過去に書いたもの」を参照されたい方はそちらを御覧下さい。新メディアへの取り組みに方っては、文章的実験、語彙での挑戦は勿論のこと――その為の一つとして一九八八年刊行の廣松渉『心身問題』を読んでいるのですが――、現代社会に於いて欠いてあるものを積極的に創出していく予定です。新しいテクストの実践にどうぞご期待下さい。
17:59  - -
場所の移動を通じて人間の可能性を知る
 久し振りにいいサイトを見付けたので、紹介したい。

http://contents.kids.yahoo.co.jp/zukan/

 最近の私はと云うと、雑事と、昔の悪い思い出と、そこから来る"人間"に対する不審に苛まれていた。私は哲学を自己流で学んだものであるから、この学問(学究)に対する思い入れは深い。主に、大まかな歴史を掴んで(これは、本――教本、ブックガイドや入門書――の場合もあるが、辞書や百科事典などが多かった)、類書を調べて、実際に通読し、生や社会機構の実際に照らし合わせ、考えてみて、そして記述してみる(これは、ただでさえ人を孤独にし蠱惑するワールド・ワイド・ウェブ上での布置だから、実験的な側面が強い)。
 それなのに、何故"人間"を不審に感ずるのか。まず、私が接する"人間"の多さである。ターミナル駅などに行くと必ずヒトが感ずる、あの交叉――私は最近この「交叉」(ちなみに「交差」は書き換え字である)の概念を中心として物事を考えているが、哲学的文脈でいう「交叉(交わり)」とは違いこの場合の交叉とは軽い意味ととってくれればいい――の異常な多さ。あらゆる可能性が開かれているが、実は閉じられているのだ、という声の囁き。
 悪い思い出とは、当然学校のことである。260円、200円、260円という硬貨を使って地下鉄道を利用しながら、人生行路に必要な書類を集めていて(本当はこの日記を書こうと思っていたがやめた)、ふと思いついたのだが、私は何処かの学校の校長になりたい。業務者にはなれないが、アドバイザリーにはなれると思う。私の経験と思考を活かせるのは、そういった実践の場にしかない。リンク集に新しく増えたテキストを書くことは何処まで世界に奉仕できるのかわからないが、現時点での私のがんばりを向けるところはそういうところに敷かなかったので、作り、書いてみた。言葉の重要さを知ったこの四年間だが、同時に言葉の無力さをも痛感している。やはり、内心の声に従い、読むべき本を探究し好きな読書をしつつ、その時々で会う人々・主体と会話しながら生きていく他ない。今はただそう思う。

 精度は低い、ただ人間はある――
03:14  comments(0) trackbacks(0)
感ずるは表出の調べ、
夢想、ああ、なんと素敵な静思夜!
全ゆる地上に類する雑念を取り払い、
天空へと飛翔する――
精神の理想の御屋へと、
感ずるは表出の調べ、
煌めく慈しみの響き――
何をか疎かにせん、
常しえに対なる双つの想。
真近に見ゆる、秘知の迷い香。
僻見の届かぬ其の苑へ、
漂うは泪の源なりき。
02:24  comments(0) trackbacks(0)
自分ヴァーサス自分、主体ヴァーサス官僚制の世界
久し振りに自分で書いたものを読み返していたら凄く面白かったです。本当に、誰に宛てて書いているんだろうって感じがした。もちろん自分宛なんだと思う。本当に恥ずかしいことこの上ないので誰にも見せようと思って見せたことは一度もないんですが、この『ブログ』に書いてある文章を全部読んだら私のことは殆んど解ると思う(今の自分ですら忘れていたことが書いてあって、新鮮な気持ちになった)。最近、私の文体の中で変化があり、それは、難しい漢字はなるべく使わない、ひらがなと漢字との組み合わせをよく考えて読みやすいように気を配る、『現代思想』のようなよく解らない雑誌のよく解らない文章ではないかたちで思想というものをいかに理解してもらうかに挑戦する、というようなものでした。というわけで、専用のワープロ機を買い(これは公園のベンチなど外出時に非常に有用なのですが、キーボードが小さいからちょっと書きにくい)、どういう風にすれば多くの人に読まれるかということを試行錯誤していました。近日、評論系の同人雑誌などを試作してみるつもりです。自分のことを知ってもらうのが怖い、というのと自分のことを知ってほしい(殺さないでほしい)、という気持ちが鬩ぎあっていて、精神の均衡を、上手い具合に崩そうとしてくれます。結局のところ「不安」(不安の概念)とは、他者の対話ができない(『フランス詩体系』という本でのある詩人の紹介文[あまり有名ではないと思う]に、コミュニケーション不可能性というよい言葉があったので、それにはとても刺激を受けたので、「会話不可能性」などの言葉が生まれたという歴史があります)ことに尽きると思う。本当は会話というものは現在に存在するし、歴史的に存在してきたし、存在させることも出来るのですが(会話権は基本的人権である説を私は唱えたいです)、あらゆる文明的フィルターやガジェット(この辺りには最近継続的に読んでいた『ボードリヤールという生き方』という本を読みながら想像・思索したことが密接に結びついています)がそれを困難にしてしまう。
人間には行動力という曖昧なものはもともとなくて、自分の信念に従って「いやなことはしたくない」「本当に自分がしたいことをする」という意識(欲求とか欲動などというべきかも知れない)が“浮上してくる”のだと思う。それを無視した、閑却した、現代においても残留し停滞する官僚制(bureau-cracy の訳語で、要するに事務机 bureau 主義といえる。倫理の資料集などでこの語を用い、自己批判的に学校制度は[内破 implosion 的にか]それを指摘している。ビューローのクラシーとは、この独特の日本的感覚「官僚制」に与えられるまたとない適語だと思う。学校や制度といったものに一般の人が感じる違和は、ほとんどこの言葉を想起すれば精神的に打倒できる。)は、人間を非人間的なものに作り変えてしまった(TV[等]の存在は、そんな官僚制にぼろぼろにされた人びとに、僅かながら、社会システムの一部でありながら「癒し」と呼ばれるようなものを与えている。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』における真理省の役割を[小説の暗い印象とはちょっと違うながらも]果たしている。また、われわれがその神話的意味を消費している、物の体系の差異は、単にスリルを楽しむ娯楽かもしれない。物を買うよりもTV[等]を観たりガジェットを弄ったりしていたいと欲求する人が少なくないのは、おそらくこのような時代的・精神的背景がある)。
なんにせよ、私は私の文章あるいは身体的な発話、研究、行動、着想などに尋常ならざる興味を抱いてくれたり、「情報社会と官僚制の被害に遭った(あえてこう書いてしまおう)」私や汝、社会的主体という存在を慈しむ感情のある人に対して、新しい個人主義(の社会、の世界)を生きる人に対して、尽くしていきたいのだし、このラディカルだがシニカルではない功績たちを捧げていきたいと思っている。
02:01  comments(0) trackbacks(0)
名状すべからざる諦念とか、筆舌に尽くしがたい屈伏とかいったもの
 〈誰に投票するか〉。誰に投票権を投ずるか。〈わたしたちの触覚〉であるマスメディアでさえも信用できなくなってしまったわたしたちは、居間で、部屋で、孤独と絶望の反復をひっそりと行ってきている。その中で、〈選挙〉という時期限りのイヴェント(出来事)に出遭う。人は、書き始める前に考えているが、それは現代の場合概ね妥協と懊悩、限界と絶望である。「可能性」/「限界」という二十側面から、世界という他者について考えるのである。若い世代にとっての〈他者=世界〉とは、「パーソナル・コンピュータ+情報通信」から広がるものである。それが最も大きいものであり、三次元的な広がりを有すこれまで〈現実〉と呼ばれてきたものは、「小さすぎて大きすぎて、何より〈狭い〉」ものとして感得されている。その状況は何故起きたかというと、グローバルな(地球規模の、〈世界的〉な)経済の動きと不可分である。すなわち、このような「現実を錯覚するまでの見事な仮想空間の〈現実〉化」は、情報機器(ハード・ウェア産業)+情報産業(メディア産業)の、〈現実〉への経済的進出と分かちがたく結びついている。かたや、われわれ人類という歴史的主体の歴史(過去の蓄積)には、人文学というものがある。その学は、文化的表象を伴って常にその時代時代の人間性を事実として〈現実〉に刻印してきた。人文学の遺産には、〈想像力〉がある。〈記憶〉がある。〈精神〉がそこにある。われわれは、情報の乱脈的に氾濫する現代においても、人文学的知(古典的な小説や歴史学の泰斗の書物など)に接し、そこに底流する思想や想像される世界を吟味したり没入したりすることによって、かれら(われわれ人類)の〈経験〉、あるいは霊魂的なものを看取することが出来るのである。つまりは、われわれは、情報に無批判的に浴するときは、〈選挙〉という時間層において大衆的な役割しか果たさないノン・ポリ、大衆といったものになるのであって、人文学的知を参照しながら思索(し行動)するときには、歴史を背負う〈賢明な〉主体となることができるのである……はずなのだ。ここで留保を附けざるを得ないのは、もはやわれわれの住む世界は、知的なヒューマニティ(素朴なヒューマニティではなく)が存在しない〈社会=世界〉なのかもしれないという絶望があるからである。絶望、などというと安易に聞こえるかもしれないが、ほかに指し示すような言葉もない。名状すべからざる諦念とか、筆舌に尽くしがたい屈伏とかいったものである。さて、長くはなったが、〈誰に投票するか〉という問いを、都市に生を持続させている一主体がするとしよう。まず、地元の政治状況がどういったものなのかどうか皆目わからない。世界中に、そんなことが解る人が居るとも思えない。政治というのは複合的な現象であり、「何をしたら何が起こる」というような、科学式の仮想的に純粋な定理などとは訳(質)が違う。街頭で話を聞いたり選挙カーの雑音を聞くのは疲れる。やはり〈マスメディア〉で判断するしかない。しかし、その〈テクスト〉、政権公約とか演説の言葉などは、文学作品のような厳密性も不動性も確約性もない。〈真実かどうか疑わしいものだ〉。そういった訳で、大概を追って検討してみる。まずは現政権党、自由民主党だが、党首の話しぶりには知性が伺えない。公明党だが、バックグラウンドが信用できない。野党では、〈投票する〉としたら、数が小さすぎる。〈大局的に政治に何も起こせない〉のだとしたら、〈投票〉する意味がない。要するにその票は、大衆という川の流れで、〈死に票〉と化す、というように思われる。であるので、野党第一党である民主党に着目してみたのである。新聞の発言を、他の当も含めて読めるだけ読んでみたのだが、そこには解釈を存在させる余地がない。そもそも、新聞に載るような言葉は〈演説向け〉〈大衆向け〉であって、会話ではないのだから。そこで、「語彙」に思考を照らしてみることにした。「分析」をしている言葉が多い党に投票しようと主体は考えたのである。思考があるなら、「分析」があるはずである。テクストには(両者に)分析が存在する。この語のことは身体的な思考なので想像していただくとして言わないとするが、「コンビニで投票すれば若者の投票率が上がる」との意見がある。しかし、わたしは「そういうことではない」という意見である。街路には、コミュニティ・センターや役所などの投票所(建物)は、コンヴィニエンス・ストアと同じように鎮座している。というよりも、むしろその日は、そこに這入るチャンスである。日常見ない景色を視覚に映じさせることは、思索にとって好機である。それに、コンヴィニは狭く、ほかの投票に来た人の顔が見にくいのではないかと思う。不正はまず起こらないと思うが、起こっても微々たるものだろう。それよりも、「選挙カーを止めてみる」「公機関、地方公共団体やそれに近い機関が、ネット上に該当地区での被選挙者の〈意見・公約〉の見やすい一覧表のサイトを造ってみる」といったことのほうが、〈実験〉としては効果があるのではないか。そんなことを最近画面の前で思った(身体性から出発した思考は、また別の仕方で記述され語られると思う)。いずれにせよ、いまから貸出してきた古典文学の世界に浸らないといけない。

22:07  comments(0) trackbacks(0)
人文的知が巨大複雑すぎる制度社会のなかで潰え、涙するとき
何でこうも、巫山戯けすぎる社会に対し、われわれは、弱すぎるし、小さすぎるのか。
久し振りにからっと晴れた。快晴とよぶべき空模様である。
熱射のなか、遠出してやってきた公園で、野球帽を被った小学校くらいの男の子たちが、「くうきよめよぉ」「よめるよー。くうきっていう漢字なら」と言っている。「うぜぇ」という言葉もでてきた。この言葉は、打鍵するのも苦痛なくらいわたしはきらっているのだが、実際に社会―現実に存在している。
社会とは、逃れられないもののことをいう。文章とは、感情の自由のことをいう。
「おれ(1)」の発音は、いまも健在である。
鳩は、元気に鳴いている。羽根をもつ主体は、こね世界をどのように見つめることができるのか。
財布のはいった鞄を無造作に脇に置いて、目を瞑ると、どのような世界が見えるか。だれかに盗られないか? という光景が浮かんでは来ないか。
太陽からの贈り物、おいしい一〇〇%アップルジュース、サンガリア製造、三百五十ミリリットル、を飲んでいる。百円だったので、一%一円ということか。
焼きそばだけではお腹が空く。コンビニエンス・ストアで何か食べよう。
男の子らは「ゆうぎおうカード」をやっている。遊戯の王というのは、恐ろしい発想だなと思う。小説や映画が、娯楽王、と名乗ることはない時代ではある。
この男の子たちとサッカー、フットボール、ア式蹴球をしてみたい。都市生活では、身体が鈍ってしかたがない……。
家で本を読むのに飽きてきたから、ここまできたのだが、結局これを打っている。考えを整理しないと落ち着かない。
また「○ざっ」と声が聞こえてきたが、あれはそれほど「すとれす」の溜まるゲームなのか。
ちなみに読んでいるのは宮下奈都さんの『スコーレNo.4』だ。『文藝』の作家ファイルで気になっていたので借りてみた。ずっと貸出し中だったが、そんなに小説という媒体は人気なのだろうか。いずれにせよわたしのほかにこの本を読んでいる人は知らない。いたら「ともだち」になってみたいと思うが、いないだろう。むしろ本好きの人にわたしが勧めるかたちになる。
自転車で、ある果てた街頭を疾駆していると、わたしを本当に愛すことができるのは、知ることができるのは、わたしだけだな、と思う。知ろうとしてくれるのは有り難いが、他者からみてどこまで知ることができるのかは、わたしには解らない。倒錯していると捉えられてもいいが、それでもわたしは他者を愛している。何をいっているんだろうか。
16:28 mobile letters comments(0) trackbacks(0)
『大きな大きな空の上の道路の下で』
 なぜ……こうもヒトは、自分の発する言葉を吟味せず世界に投擲するのだろうか。本当に何処も彼処も、グローバリゼーションの中に含まれていて、競争から逃れるすべはない。もはや生はこういった競争の附随物でしかない。居場所はあっても生きる場所がない。コンビニ的な人生にならざるをえない。人は何が愉しくてこんな世界に居ているんだろう。何に満足しているんだろう。物が充溢していて、何を買えばいいか解らない。食べるということは、都市のなかでは、消費をすることに包摂されてしまった。もうそうでしか生きられない。ここからだと「チケットセンター」のTという文字ネオンがよく見える。おそらくこの圏の視覚的な表象としてはいちばんよく目立つ。消防車や救急車がよく通る。音がよく映えるだけかもしれないが、その時だけこの町――といっても動いているものはゴムタイヤと窓とウインカーをもつ車輛生命体だけだが――は静止したようになる。交通規制用の信号ライトが赤く光った時にも停止はするがそれとは何だか違ったようなものだ。
 自動で開く透明な扉に導かれるようにして室内に這入ると沢山の食品や化粧品、文房具や雑誌がずらっと並んでいる。棚を見るとそこには空気や空白以外の何かがある。お腹を満たすために来た。だから飲食物を物色していた。といっても何を買えばいいか解らないんだ。だから過去を探って運命を取り出すしかない。わたしは好きだったお菓子を思い出しそれを手に取った。過去を探って、といったがそれは本当ではないかもしれなく、どちらかというとパッケージを見て過去が掘り出されてきたのだ。手に取るという選択をしたのは本当であり、それは他の物ではあり得なかった。飲料も同じようにして選び、手に取る。買物籠を持とうという気にはならない。何を買うか、沢山買うか少なく買うかは解らない。とても勇気がいる。一先ずレジスター前に往き、「商品」を机に置き勘定をお願いする。咄嗟に「これと、ファミチキ一つお願いします」と言ってしまった。食べたかったのだ。受け取った店員さんは「ファミチキ一つですね」、と言い、保温が完備されているボックスから目的の
ものを取り出してくれる(だがその時にはもう支払うための所定の小銭を財布を覗いて確認していたから実際に見てはいない)。経済的契約が済むと、ありがとうございました、と店員さんとわたしの両方が言って、元来た透明な自動壁の方面に向かう。自転車が物凄い数並んでいる。わたしが人生のなかで話しかけたことのある人の数を軽く圧倒する。自分が停めた車輛を認め鍵を差し込んで回転させると施錠が外れるから、それに跨がって帰宅の途に就くことになる。ああ、帰ることの家はあるのか。それは物理的に、本日的に、だが。

(続)
19:04 mobile letters comments(0) trackbacks(0)
カオス/ばらばらと言葉と修辞の海の中で
 今日は一人花火大会に行ってきた。運賃はなかなかに掛かった。大雨が降っていた。とても濡れた。最初の在来線の最寄り液から大きな駅に行って旧国鉄に乗り換え……ていなくて、結局地下鉄に乗り、さらにそこの線から在来線へと車体が変身した。160円と740円が片道で掛かる。まず往路の地下鉄=在来線内では大雨が「開きますドア」から横殴りで浸入してきて、車内が水浸しになる。それでも入ってくるのは水溜りとは行かない雨量だった。目的駅に着くと非常に混雑していて、まさに人の波という感じだった。駅構内を降りると、階段下を右に曲がれば臨時件販売所があるのでそこで帰りの切符を買ってください、と拡声器を通して呼びかけられたので行ってみると、もちろん有人だった。わたしは「万志堂駅までです」といって740円を小銭入れから計算して差し出し、相手は少し聞き取りづらい素振りをして見せたものの代金を受け取った。わたしは已にして復路の切符を手にした。コミュニケーションは都市システム的に成立した。定めし、雨は降り続いている。やや小降りになったように思えたものの、日常の「雨」とは比べ物にならない勢いで地面に水滴が敲き付けられている。進行通路らしきものを人の流れに沿って進み、今まで足を踏み入れたことのない陸路を探査していく。ビルディングは万志堂市と似ている。おそらくこの邦ではこの異様な建築空間が無邪気に広く受け入れられているのだろう。全ゆる屋根という屋根は――そう張り出しているものなら何でも――雨宿りの人びとで埋め尽くされていた。(続)
03:05  comments(0) trackbacks(0)
言葉(〈言語〉)と気持(〈気分〉)とが
20090713033138.jpg
03:32 mobile letters comments(0) trackbacks(0)
一日を記すこと/見えないものを見ること
20090707184048.jpg
 沈着温静に考えれば何ら不思議でないものが不思議といわれ、本当に不思議(mysterious)なものが見過ごされている。
 雲は鳴動し、言語コードは維持され、砂利は足跡を刻みつけ、儀礼は再生産を促す。この時間の雲はなぜあんなにも速く移動するのだろう。風はなぜこんなにも不安を昂らせるのだろう。奥の雲は泰然としていて揺らがない。手前の雲は速く、滑らかに頭上――いや水平線上を駈ける。
 わたしが本を読むのは、現代の技術的空間に抵抗するためでもあるし、思考を他者に延長させるためでもある。つねに何らかの本を読んでいる。長い間この習慣をつづけてきて、よい本を見つける感覚も向上してきたから、ここに撰ばれてきているのは、とびきり知的精度の高く、一冊だけで、触れるもの琴線を揺さぶり刺戟する本ばかりだ。
 政治家の顔写真のビラである。イエス・キリストは神の一人子、政治と宗教がおなじベクトルで残存する 一方で自然を欲求しながら、もう一方では都会的な生活を享受している。たしかに矛盾している。だが、一人の、知的な志向心のある人があらゆる分野に精通しているだろうか。それは違う。しかし、そういった矛盾を経験したことがない人は、一度も言語によって世界を根本的に認識・把握することがない。心地のよいメディア空間に身――いや感覚を委ねながら、部屋と経済活動の部屋を往復している。音楽は、流行のものを聴くし、歌う。映画も、誰かの噂話の範疇に出てきたものしか、観ない。録音、撮影ブースから流れる、間断ないその場かぎりの妖しい危うい、(しかし事業の維持を運営者たちが選択しつづけるかぎり永続する)秩序にすべてを預けている。
 現代の教育=〈競争〉=経済体制は、分裂の勝利だ。人格は遂に統合されない。作文は、仮の統一である。絵日記にある程度ひろがりがある程度だ。
 雨が降ってくると屋外で読書ができない。室内に引き戻される。120円500mlのパインサイダーだけがイヴェント(出来事)だった。
 耳を塞ぎ、眼を瞑ると、平和だと思っていたものが去っていく。すべては物理体系の秩序であったのであり、携帯電話――携帯装置を握りしめて意識を言語化・文字化することは無意味・無価値に思える。『ハバーマスとヤスパースと携帯電話』という本がある。「セーフティパトロール」という警察所属の白と黒を基調とした自動車が、乗車しているのではないだろう女性の声で、歩きながらの携帯は危険である、と演説している。クリーム色と黄土色のツー・トーン・カラーの校舎から、おはようございましたというような唱和がきこえる。四十本程度分散して生えている広葉樹が風にあおられてさざめき、独特の動世界を形成している。言語化しないことで、意識すれば見えるものを見えなくさせる、物理的手法がある。一本の樹に生えている葉の数はかぞえきれないほど多く、おそらくここから「見える」樹々のものを真剣に量的言語――量の概念で把握したら、兆を越えて、京、垓にまで達するだろう。貨幣が行き渡り、貨幣を扱う技術が発達する以前は、垓という単位は、京の十倍だ
という事実をいうだけでよかった――大辞林によるが、現在日常世界で用いられる「一 京の一万倍。十の二十乗。」の意味に次いで「二」に「古くは、京の十倍。」とあるのを見て発想したことで、これは単に推測であるが、「一」の用例には江戸時代、1627年刊行された吉田光由の著作『塵劫記』の名が記されているので、源を追究していくと、この推測は真実にちかいところにあるのではないか。
18:49 mobile letters comments(0) trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< September 2011 >>
PROFILE
NEW ENTRY
CATEGORY
MOBILE
qrcode
ARCHIVE
LINKS
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
白鯨 上
白鯨 上 (JUGEMレビュー »)
ハーマン・メルヴィル,八木 敏雄
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
SPONSORED LINK